手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

文字

思いを言葉にすると、在るのか無いのかも定かでなかった微妙な心の動きが

突然輪郭を帯び、グワンと音量を増し、制御の効かない動作を始める。

 

特に寂しさや悲しさは言葉にしてしまうと、

その後の予期せぬインパクトが怖い。

 

だから、重たい感情には目を向けず、できるだけ蓋をして、

平気な顔して日々やり過ごしている。

 

3月に入り一気に春めいてきた。

日照時間が少ないフランスの冬も終わりに近づき

お日様の力を借りて草木も冬眠から目を覚ますこの時期、

本来であれば気持ちが上向きになり始める頃。

 

けれど、心に浮かぶのは

去年の春亡くしてしまった主人。

大切な親友であり最愛のパートナー。

 

思い出す度に笑顔でいられるようになるには

まだまだ時間がかかりそうで、

心が冷たく湿って重たくなる時は、

努めて明るく軽やかな思い出を引っ張り出す。

そして「巡り合えた人生にありがとう」

、と作り笑顔で悲しさに目を背けるようにしてきた。

 

ただ、ここへきて、ようやく慣れてきた感情のコントロールを乱されている。

一周忌を前に主人の友人からポツリポツリと連絡が来るのだ。

「どうしていますか。」、と近況を尋ねる物が多いが、返事に困る。

いつも蓋をしている感情を文字にしなければいけないから。

 

一通、一通、相手に心配をかけない様に

自分の心が乱れない様に

気を配りながら慎重に冷静に言葉を選んでいるつもりなのに

綴る文字が目に触れて心が震える。手足が冷たくなって、涙がこぼれる。

 

ただ、頂く手紙には必ずと言っていいほど主人との思い出と共に、

ちょっと大げさに思えるようなお礼の言葉が書き添えられている。

 

生前、主人の体調を心配して遠方からお見舞いに訪れてくれた友人の方々も

お礼を伝えると、逆に主人にはお世話になったからとお礼を言われた。

 

思ったことは歯に衣着せぬ物言いで

正直すぎて反感を買う事も少なからずあった彼だけど、

知っている人が困っていると放っておけず、できる限りの手助けする人だった。

 

自分の感情と向き合うのはまだ辛いけれど、

こうして手紙を頂き、私たち家族以外の人の心の中にも

「ちょっとクセは強いけど優しく世話焼き」という彼の本質が

1年経った今でもぶれずに存在しているという事が知れて慰められている。

 

気持ちは乱れても、時には感情をかき混ぜて呼吸をさせる事で

少しずつ癒えていくのかもしれない。

 

 

願はくは 花の下にて 春死なむ

そのきさらぎの 望月のころ

西行