今朝、リハビリセンターに入院中のご近所さんをセンターまで迎えに行った。一時帰宅が許可されて、久しぶりのご自宅での一泊が叶う。
脊髄狭窄症手術後のリハビリをされているのだが、足取りもしっかりしていて、杖いらず。御年84歳とご高齢にも関わらず、手を貸すのも失礼に感じるほどの回復ぶりが嬉しかった。
帰りの車の中で、「そうそう、以前紹介してくれたあなたのお友達だけど、最近会ってる?」と聞かれた。
そういえば、会っていないし、話してもいない…。
最後に会ったのは確か去年の初夏。
別に仲たがいしたとか、そういう訳じゃない。
ただ、きっと友達と呼べるほど親しい関係を築くに至らなかったという事だ。
そう考えると私には友達と呼べる人があまりいない。
高校時代の友達が一人。
アメリカの学生時代の友達が二人。
皆遠くに住んでいてLineではちょくちょくメッセージするけれど、話すのは年に一、二回。
フランスに移住して、日本人の集まりの場に参加して知り合ったご近所の方と交流もしてみたけれど、長続きはしなかった。
考えてみると大人になってからは友達を作ろうと努力してこなかった。
それまでいた友達で十分な気がしていたし、主人と出会った事も大きかった。
彼と付き合い始めてからずっと、彼が一番の友達で理解者だった。
彼の交友関係は広かったけれど、彼も常々私が親友だと言っていた。
満たされていたという事だ。幸せだったという事だ。
でも彼を亡くした今、無性に誰かと話したくなる事がある。
子供たちとは母親としての会話がメインになってしまい、それはそれで楽しいし不可欠だけれど、やはりどこか物足りない。
きっと人には話し合える相手が必要なのだと思う。
日々思う事、考える事が発散されず溜まっていくと、心が重くなり、それに引っ張られるように背は丸まり視線も俯きがちになってしまう。
ただ、それに気づいたからと言って、突然友達ができるわけではない。
田舎暮らしで、しかも在宅で翻訳の仕事をしている私にはそもそも出会いが無い。出会いの場を求めて出かける気力も無い…。出会ってから、友達になるまでの高きハードルの数々を考えると、無駄な努力だろうと心が萎える。
そこへ突然閃きが訪れた。
「そうだ!こういう時こそ文明の力を借りるのだ!
気力も体力もホルモンの力さえも全て装備している若者たちでさえ
出会いを求めてマッチングアプリとやらを使っていると言うではないか!」
というわけで、昨年の暮れ、婚活アプリ…
ならぬ、Slowlyという文通アプリを始めた。
始めて日が浅いので、まだまだ表面的なやり取りをしている段階だけれど、ちょっとワクワクしている。今まで存在すら知らなかった世界のある場所で日々生きている人と繋がる事ができるという奇跡。これこそご縁!
自動でマッチングされた相手もいれば、私の趣味やプロフィールを見て興味を示してくれる人もいて、もちろんこちらが興味を持った人に手紙も出せる。
書きたい人向けのアプリだからか、みんな手紙らしい文章を送ってくれるのも嬉しい。行間に見え隠れするその人に思いを馳せてウキウキする。何度も読み返しながら、相手を思って言葉を選びゆっくり返事を書く時間も楽しい。
かなり遠回り?
確かに。
でも、焦らずに友情を育みたいなと思える人と繋がって
「最近?うん、しばらく文通してた友達と会ったよ。」
と言える未来を妄想できる幸運に感謝です。