手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

巣立ち

フランスに越す前は家族でハワイに住んでいた。

学生時代から20年程住んでいたけれど、「第二のふるさと」という感じではない。

懐かしい気持ちはあるが、また住みたいか、と問われるとそれほどでもない。

 

でも、ハワイで生まれ育った息子に聞いても、それほどの愛着はないと言う。なぜかと考えてみると、私たちにとって「ふるさと」とは「家族が居る場所。」という結論に至った。何度も家族でハイキングにいった山や森や滝も、泳いだビーチも、食べに行ったレストランも、思い出は場所ではなく家族と過ごした時間だという事に気付いた。息子曰く、「Home is where your heart is.  My heart is always with family.」ふるさとは心のある場所。僕の心はいつも家族と一緒だからね。

 

大人になるまでの大部分を一緒に過ごしてきた家族の絆が盤石である事に越したことはない。でもこれは、裏を返すと、我が家がいかに家族以外との繋がりが薄いか、という事を表している様で、少し不安になる。

 

夏休み、久しぶりに再会した叔父が息子に言った。

「お前はもっと周りに迷惑をかけてもいい。我儘になってもいい。だからもっと外へ出ろ。」

すると息子は、まるで準備していた様に答えた。

「迷惑になるのはやっぱりイヤ。僕が出かけると周りが大変になるのは悪い。」

これに対しほろ酔いの叔父が返したのは、

「それは当たり前だ。自分で出来ない事は人に助けてもらうしかないだろう。それは誰でも同じだ。そこは割り切って、気持ちよく『ありがとう!』って言って迷惑をかければいいんだ。それを好きで仕事にしてる人にしてみれば、『毎度ありがとうございます!』だろ。」

 

息子にどこまで伝わったかは分からないが、私は目から鱗が落ちた。障害あるなしに関わらず、みんな自分で出来ない事は誰かに頼って生きているではないか。そして頼られる人は、自分の技術や専門性が誰かの役に立てて、それへの対価が得られれば嬉しいはずではないか。

 

やはり私のせいかもしれない、とちょっと後悔している。

息子の事は、「母である自分が」、といつも思ってきたし、そうしてきた。

それが当たり前だと思っていたから。

でも、私がもっと周りに頼っていれば、それが息子にとっても普通になって、罪悪感に肩をすくめる代わりに「ありがとう!」と返せていたかもしれない…。

 

息子は20歳。そう、勝負はこれから。

くよくよ過去の自分の過ちを後悔しても仕方がないではないか。

巣立ちを手助けするのは今。

 

ミッション:頼れる他人を探す、発動いたします!

親はいつまでも元気で生きてはいられないのだから。

「えっ、ママまた腰が痛いの?じゃ明日は○○さんに頼むからママは休んでて。」と息子が言える日を目指して。