手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

進行性脊髄性筋萎縮症(SMA)-診断(その2)

旦那と息子と一緒に遺伝子診療科に行ったのは春先の事。

予約した時間に行くと、診療室に通され、まずはカウンセラーの方による問診でした。

妊娠中の事、出産時の事から始まり、ハイハイや歩き始めた時期、気が付いた症状、診察歴や、その他にも旦那と私の家族の病歴なども細かく聞かれ、問診だけに1時間は費やしたでしょうか。問診後、少し待ち時間があり、ようやくお医者さんの診察が始まりました。

リハビリ施設での小児神経科のお医者さんと同じく、関節の動きや筋力を念入りに調べ、結果を記録していきました。その他反射や、握力、階段の昇降などの脚力の検査も受けました。

一通り検査を行ったあと、前もって行った血液検査の結果から、CK値(クレアチンキナーゼ)が上昇している事を説明され、遺伝性の筋疾患が疑われる事から遺伝子検査をしてみるよう勧められました。

 

そして採血。結果が出る2週間後に予約を入れました。

 

この間、私の方は、以前から色々調べていた事もあり、「息子が大事な息子である事には変わりなく、どんな結果が出ても、それで専門家のお医者さんのサポートが受けられるのであれば、暗中模索の今よりも絶対にいい」という確信があったので、ある程度落ち着いて次の予約日を待てました。そして、何よりも私の力になったのは、リハビリ施設で見た、病気の子供たちの笑顔であり、家族の笑顔でした。重い障害があっても、笑顔でいられる理由がある証でした。

 

旦那の方は、この2週間気が気ではなかったようで、変に攻撃的になったり、無駄に原因を探そうとしたり、お酒の量が増えたりしました。

旦那の母親には心配をかけたくないと、結果が出るまでは話しませんでした。

 

でも息子はと言えば、4歳の誕生日を迎え、いつもと変わらず、好きなオモチャで遊び、幼稚園ではちぎり絵で地球儀を仕上げ、公園へ遊びに行き、帰ったら、みんなの靴を揃えてくれていました。当たり前ですが、泣いたり、笑ったり、いつもと変わらない、大切な可愛い息子でした。

 

そして迎えた予約の日。

お医者さんが血液検査の結果を知らせてくれました。

「息子さんは、SMA1という遺伝子が欠損している事が分かりました。進行性脊髄性筋萎縮症です。ですが、息子さんは歩けているので、3型で、SMAの中でも軽症のタイプに分類されます。」

その後、色々な資料を渡され、カウンセラーの方からも話がありましたが、内容はよく覚えていません。ただ、印象に残っているのは、お医者さんもカウンセラーの方も、とても落ち着いていて、表情は柔らかく、それほど深刻な告知であるという感じではなかった事です。

今から思うと、きっと、それまで診て頂いた総合内科や整形外科のお医者さんに比べると、症例数の少ない難病の患者さんを数多く診てこられたため、告知と予後の説明など対応方法がある程度確立されていたのかもしれません。

 

この日から、4歳になったばかりの息子は(本人はどこ吹く風でしたが)、

正式にこの病気と向き合って、上手に付き合いながら生きていくことになります。

 

そして親の私たちは、時には不安の暴風雨に晒されながらも、

普通の親と何ら変わらず、息子の心身の成長を願いつつ、祈りつつ、

子育てに励む事になります。

進行性脊髄性筋萎縮症(SMA)-診断(その1)

10万人に一人が発症するという難病。

現在の所、治療法は無く、日々少しずつ進行していく病気。

今まで何とは無しにしてきた事が、だんだん出来なくなり、介助が必要となっていく。

 

私の息子は4才の時、この病気と診断されました。

 

でも、母親の目から見ると、2歳頃にはすでに色々な症状がありました。

平坦な道でもよく転ぶ。走るのが極端に遅い。しゃがめない。床から立ち上がるのが難しい。歩く時には土踏まずが地面に押し付けられて足首が内側に傾いてしまう、などなど。

心配して色々なお医者さんに診てもらっても、稀な病気とあってすぐに診断には結びつかず、大抵は「少し運動機能の発達が遅れているだけでしょう。4,5才頃までには他の子供たちと同じ様に走り回っていますよ。」と言われるばかりでした。私としてはその都度少し安心するものの、「何かが違う」と腑に落ちませんでした。

 

そして、3歳。幼稚園に入って二月ほど経った頃、先生から、

「お宅の息子さん、他の子供たちと比べると、足の力が弱いようなので、少しリハビリに通わせてあげるといいのではないか」と言われました。その幼稚園は、たまたま障害児向けの施設が併設されていたので、そこで働くリハビリの先生が見て下さった事で、ただの運動機能の発達の遅れではない事が分かった様です。そして、産婦人科・小児科専門の病院のリハビリ施設で予約を取る事になりました。

 

その頃には、私の心配は、日々大きくなっていたため、インターネットや書籍などで色々調べていました。症状から調べると、色々な病名が出てきて、中には20才、40才、と寿命が示されている病気もありました。それぞれの病気のそれぞれの症状。今ほどソーシャルネットワークは発達していなかったので、患者さんが自分の生活を語っているような記事はなく、大部分が医療用語としての解説か、医療機関が提供する患者さんとその家族向けの情報といったものでした。頭でっかちになった私の心は不安と心配で膨れ上がっていました。旦那にも同居していた旦那の母にも相談できずにいたので、幼稚園の先生の言葉を聞いた時には「これで、病気が分かるかもしれない」と正直、目の前に進むべき道筋が照らし出された様で、ホッとして、気持ちが少し楽になったのを覚えています。

 

11月。息子を連れて産婦人科・小児科専門の病院のリハビリ施設へ。

小児科専門の施設という事もあり、明るく元気な色で溢れており、スタッフの方も皆笑顔だったため、息子も嫌がる事なく、先生と一緒に色々な遊具を使って楽しく運動機能テストをしました。息子は、頑張ったご褒美として、小さなオモチャまでもらい、嬉々とした様子でした。そして、テスト結果は次週という事で、予約をとって帰宅しました。

 

そして結果報告の日。先週と同じ部屋に招き入れられますが、リハビリの先生の他に、小児神経科のお医者さんもいらしていました。リハビリの先生から、できた事、できなかった事などを普通の子供たちの平均能力と比較しながら説明があり、お医者さんは簡単に息子の身体検査をしながら「あれやってみよう。」「これはできるかな。」などと体を動かさせていました。

そして、その日、念のために遺伝子を調べる血液検査をした方がいいという事になり、遺伝子学専門の病院へ紹介されました。

 

リハビリの施設までは私と息子二人で行きましたが、遺伝子学のお医者さんとは主人も一緒に来るようにと言われました。

 

進行性脊髄性筋萎縮症(SMA)-その2 へ続く

 

トランプ大統領!?

ドナルド・トランプ氏が、世間の予想を覆して、米大統領に選ばれましたね。

いつも悪態雑言でメディアを騒がせて、多くの人の嫌悪感を煽り立てていたのに

なぜ彼の方が選ばれたのか、不思議に思われる方も多いのはないでしょうか。

 

20年間アメリカに住んでいて、いつも感じていた事は

インテリ階級の人は、リベラル派でないと、反感をかわずに自分の意見を言えないという事。

 

保守派に属するのは田舎の労働者階級か、キリスト教の敬虔な信者か、自分の富を一番に考える自分勝手な億万長者。反対に洗練された教養のある中上流階級を占める人は、弱者の立場を理解するリベラル派が当たり前という風潮です。

 

私の旦那はソ連時代に生まれ育ち、成人しました。彼がアメリカへ移住してきた89年、アメリカは開かれた資本主義で、努力する人にはその分だけ成功への道も広がった時代だったと言います。まさに「アメリカン・ドリーム」を胸に皆が頑張って生きていたのでしょう。

 

でも、幸か不幸か、旦那の仕事は大学関係。インテリ階級の集まりで、インテリ階級を膨らませる役割をする場所です。ソ連時代を生きてきた彼は、紙の上では完璧だった共産主義の思想が如何に人々を苦しめ、国を疲弊させたかを身をもって知っていました。

 

アメリカのリベラル派は、「政府の介入により貧富の差をできるだけ無くそう」、

「教育、福祉の充実」、「個人の自由を尊重」など、根底にあるのは弱者の味方ですが、裏を返せば、「富の再分配」という共産主義に通じる所がある事も否定できません。

彼にはこの思想を受け入れる事はできませんでした。ですが、大学で働く人も学生も、ほとんどがリベラル派。

「その考え方にはちょっと同調できないかな…」、と正直に言おうものなら最後、あっと言う間に「エゴイスト」「差別主義」「富裕層の味方」などなど、大変なレッテルを貼られてしまいます。

 

なので、自然と保守派は無駄な論争を避けるためにも、酷い批判の的になるのを避けるためにも、自分の意見を言わなくなります。

そして、声高く熱く語るリベラル派が目立つ事になります。

 

おそらく、今回の米選挙戦も、「驚くべき番狂わせ」になった理由はここにあるのだと思います。選挙前に目立ったのはリベラル派でしたが、沈黙を守っていた他の人が予想以上に多かった、という事です。

 

もちろん、トランプ氏が理想的な大統領になれるか疑問ではありますし、他の国々と協調して様々な問題に対処していけるかどうかについても不安は残りますが…。

とにかく、アメリカ人が選んだ次期大統領。

人民の期待に応えられますように。

 

 

 

 

 

ユダヤ人お爺ちゃんに学ぶ、美味しいお茶の淹れ方

飲むと、ほぉ~っと心を和ませてくれる、お茶っていいですよね。

特に、この季節、忙しく立ち回った後に飲むお茶は格別です。

一息つく。そして、ゆっくりと窓の外を眺めてみましょう。

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慌ただしい毎日、心も体もちょっと疲れ気味になってくると

秋晴れの高い空も、朝の澄んだ空気も、色づく紅葉や銀杏も

何にも心が動かなくなってしまいがち。

 

生きていくのって、確かに大変な事も多いですよね。

でも、辛い経験をして初めて、当たり前である事の幸せを感じる事ができるようになるのも事実。

 

生命の大切さや、美しさを知るには、命の弱さ、はかなさを経験しなければいけない。

人の優しさやぬくもりを感じるには、人の冷酷さを身をもって体験しなければならない。

 

だから、やっぱり人生、時には大変な事がなければ、人生の本当の素晴らしさって分からないのかもしれないな、と思います。

 

辛いな、と思う時。

温かいお茶で一息ついて、

「ピコピコピコ…人生経験値1UP!」が聞こえたらしめたもの。

何か、いい事起こりそう。

 

では、ここで、美味しいお茶の淹れ方をユダヤ人のお爺ちゃんから習いましょう。

ある小さな町に美味しいお茶を振舞ってくれる事で有名だったユダヤ人のお爺ちゃんがいました。一日に一杯はお爺ちゃんのお茶を飲もうと、お爺ちゃんの家には、お茶菓子をもって、いつも誰かが来ていて賑やかでした。

 

でも、年を取ったお爺ちゃん、ある年、とうとう病の床に伏してしまいます。

お医者さんも、もうなす術がないと、首を横に振ったその夜、

家族や友達、ご近所さんなど、お爺ちゃんとお爺ちゃんのお茶が大好きだった人が

お爺ちゃんの枕元に集まりました。

すると、何日も眠っていたお爺ちゃんが、それに答えるように目を開きました。

家族も友達も、ここぞとばかりに声を掛けますが、返答はありません。

そこで、ご近所さんの一人が意を決したように大きな声で尋ねました。

「お爺ちゃん。あんたのお茶は本当に美味しかったよ。いつもありがとうな。

…で、何度聞いても教えてくれなかったけど、どうしたら、あんなに美味しいお茶が淹れられるんだい?なぁ、お爺ちゃんや、もう、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかい?」

お爺ちゃんの口元に薄っすらと笑みがこぼれました。

そして「誰にも、言うんじゃないぞ。」

みんな、お爺ちゃんのハッキリとした声に、息をのみました。

「…茶っ葉じゃ。茶っ葉をケチるんじゃない!」

そして、お爺ちゃんは口元に満足そうな笑みを浮かべたまま、息を引き取りました。

 

人にもよると思いますが、日本人はあまり濃い紅茶を好みませんよね。

留学資金を稼ぐために洋食屋さんでアルバイトしていましたが、その時も

紅茶はティーカップの底が見えるぐらいの濃さでした。

手鍋にお湯を沸かして、直接茶葉を淹れ、すぐに火を止めて、ふたをする。

香りが立ち、綺麗な、深いけれど透明感の残る色までお茶が出たら、

茶こしを通してカップに注ぐ…

ミルクティにする時はお茶の味がミルクに負けないように、濃いめに淹れていましたが。

でも同じ茶葉を使っていても、ヨーロッパでは紅茶をコーヒーと同じぐらいの色になるほど濃く入れます。渋みや苦みも美味しさのうちなんでしょうね。

 

今日は、ユダヤ人のお爺ちゃんに思いを馳せて、ちょっと濃いめに入れてみますか。

 

 

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ここにあったか、英会話上達の壁

言葉って大切ですよね。

伝えたい事があっても、それを伝える言葉がなければ、

相手には分かってもらえませんから。

 

でも、生まれ育った日本語を何となく使っていると

言葉の大切さは、あまり実感できないもの。

伝えようと意識しなくても、いい友達や家族は、

言葉の足りない部分をちゃんと補って理解してくれますものね。

これが、母国語のいい所でもあるんですが。

 

しかし、多くの方が経験されている事かと思いますが、

外国の地で外国語で話すとなると、とても大変ですよね。

 

私も外国暮らしが長いので、それは痛感しています。

高校卒業後、専門学校2年間で、できるだけ英語を勉強しました。

留学する際に必要な、TOEFLという英語習熟度テストでも、入学基準クリアし、

英語を勉強した証として英検も取り、

その他、シドニーシェルダンのベストセラー小説やトールキンホビットを原文で読み、BSで英語の番組を毎日見て…と、

とにかく、英語が勉強の足かせにならないように、準備万端(のつもり)で留学先へ向かったのです。

 

あれは、20才の夏でした。

 

そして大学生活が始まりました。

講義の内容は思ったよりよく分かり、テストの成績も上々でした。

 

が、私を憂鬱にさせていたのはグループワーク。

アメリカでは、やたらに多いこのアクティビティ。

最初に直面した問題は…

1.若者たちの話す英語が半分も分からない。(『先生が言ってる事は殆どわかるのにぃ、なんでぇ~??』、と毎回焦り、)

2.課題から脱線して、雑談に興じる若者達が何を話しているかも分からない。(アメリカのポップカルチャーなるものには全く興味はなく、その頃はインターネットもなかったので。。。世代がバレバレですね。。。チヤチャっと検索もできず、『全くついていけな~い!』と混乱し、)

3.肝心の課題にかける残された数分間で、いきなり深い問題を突きつけられて返事に困る。(「…で、○○さん、あなたは異文化理解において一番大切な事は何だと思いますか。エピソードも交えて、どうぞ。」『えっ、何、考える時間はないの?ちょっと待ってよぉ~。』パニックに陥る。)

 

そして、クラスの若者たちには、「あの日本人、何か陰気だし、使えないよね~」と

敬遠される羽目に。

 

最初は「あー、もっと英語勉強しないと…。考える間を持たせるような英語…」

と全て英語力のせいにしていました。

 

でも、この傾向は学部生生活3年間、ずーっと続く事になります。

どうしても、ここぞ、という時には、頭が白くなり言葉が出ない。

日常会話には不便がなくなり、英語も比較的自由に使えるようになっていたのにも関わらず、です。

 

そして、気づきの瞬間。

大学のチュータリング・センターで、日本語会話練習の相手をしていた時のこと。

私:「今日は、朝何時に起きましたか?」

学生:「7時です。」

私:「そうですか。朝ごはんは食べましたか?」

学生:「はい。食べました」

私:「何を食べましたか?」

学生:「サンドイッチです。」

私:「そうですか。どんなサンドイッチですか?」

学生:「ピーナッツバターサンドイッチです。」

私:「あ、ピーナッツバターは、美味しいですよね。私も好きです。」

学生:「そうですね。僕も好きです。毎日食べます。」

 

ーーここまでは、とっても上手でした。しかし…

 

私:「本は好きですか?」

学生:「はい、好きです」

私:「そうですか。私も好きです。どんな本が好きですか?」

学生:「…」

私:『聞き方がまずかったかな。じゃ…』「最近、読んだ本をおしえてください。」

学生:「サイキン…」

私:「あっ、最後に読んだ本でもいいですよ。」

学生:「はい。…」(かなり、深く考えている様子。)

 

最終的に、この学生は、雑誌と教科書以外に本は読んでおらず、「好きだ」と言ってしまった手前、何かいい答えを出したかったが、最後に読んだ本も思い出せず、頭の中が迷路状態になり、何も言えませんでした。

 

そう。話せなかったのは言葉の問題ではなかったんです。

「言うべき事が見つからなかっただけ」だったのです。

 

言葉が生まれたのは伝えるべき事があったから。

 「大和歌は 人の心を種として よろずの言の葉とぞなりける」(古今和歌集

 

でも案外、言葉の大本となる「心の種」=伝えるべき事の部分が

外国語で会話する時に一番厄介な問題なのです。

「言うべき事」「伝えたい事」が、モヤモヤしていて、言い表そうにも、

掴みどころがなくて、何をどう説明していいか、皆目見当がつかないのです。

 

それからは、とにかく色んな事について自問自答を意識するようにしました。

自分の考えや知識がハッキリしていれば、伝えたい事も自然と明確になり、

それを言葉にしやすくなります。

 

日本であれば、友達と映画を見に行った帰り、

「あ~、良かったよね。何か癒されたよね…。」

「本当、良かったよね。泣いちゃったもん。」

「私も~。」

と自然に共感できて、満たされた気持ちになる。

気の合う、いい友達で、多くの言葉がいらない関係は、とても素敵です。

 

でも、外国の地で、そんな友達を見つけるのは至難の業です。

そういう境地に至るまでは、自分の考えや感じ方を繰り返し説明して、相手の事を知るために色んな質問を投げかけないといけません。そして、意見の主張も忘れてはいけません…。

 

どこが、どんな風に良かったのか。どのシーンで、なぜ泣いちゃったのか。何が心を動かしたか。どの俳優が良かったか。どのセリフが心に残ったか等々、意識していないと言葉にできない事って本当に多いんですよね。

 

日本は、きっと、「多く語るのは野暮」な文化。以心伝心が大切で、目が語り、背中が語り、仕事ぶりが語る社会。だからもともと説明下手な人種なんでしょうね。

 

勉強しているのに、英会話がなかなか上手くならない、と思っている方、

是非、英単語やイディオムの勉強を少し離れて、「伝えたい事」に集中してみて下さい。

 

伝えたい事が明確にさえなれば、知っている単語を駆使するだけで、何とか要点は伝わるようになります!

 

そして、私は、と言えば、目下フランス語を勉強中です。

果たして学んだ事が生かせるか?

 

À tout à l'heure!

 

 

 

 

 

 

カマキリ

虫は好きですか?

私は小さい頃から虫が苦手でした。

虫と言ってすぐに思い出すのは、夏。近くの神社の境内で蝉取りをする子供たち。

網の中で「ジー、ジー」と音を立てて、羽をバタバタさせる様子。

真っ黒い小さな眼が、時々光を反射して白い点が浮かび上がるところ。

子供心に、恐怖を感じていました。

あとは、昆虫の標本作り用の薬品を入れた注射器も覚えています。

誰が持っていたのか、記憶が定かではありませんでしたが、

自分が使うわけでもないのに、何か悪い秘密を見てしまった様な気がしました。

 

それに追い打ちをかけるように、色んな昆虫に関する情報や映像が、いつの間にか、「今に、立場が逆転する。巨大化した昆虫に襲われる。」、と想像力が暴走し始め、

思春期を迎える頃には、モンシロチョウも嫌いになりました。

 

でも、大人になって、田舎を離れ、虫と遭遇する事も少なくなり、虫への恐怖心も徐々に薄らいできました。

 

そして、親になり、子供の可能性がどこにあるか分からない時に、

親の好き嫌いで、子供の興味を制限してはいけないと思い、できるだけ中立の立場をとる努力をしてきました。

「蜘蛛がいる~っ」

『ひぇ~っ、蜘蛛!かなり大きいし…』と思いながらも

「あら、本当。家の中が暖かいから、どこからか入ってきたんだね。逃がしてあげよう。」とできるだけ平静を装って、旦那の所へ助けを求めに行く。

「天井に何かとまってるよ~」

『ひぇ~、あの目の玉のような模様。何とかして~』と思いながらも、

「あら、本当。蛾ね。大丈夫、刺したりしないから。」と、まったく動じていないふりをして、旦那の所へ…。

 

そうこうするうちに、自分で自分のマインドコントロールに成功したのか、本当にあまり怖くなくなってきました。

 

そして一昨日。娘が、人生初の遭遇を果たしました。

「ママ~、何かいる~っ!」

「何何?」

「ここ、ここ、見て~!」

「おー、カマキリじゃない。カッコイイね。」

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「カッコイイ」。そう、昆虫を前に、旦那にも使わない誉め言葉を使ったのです!

人間、ここまで変われるものかと、我ながらアッパレです。

苦手を克服する事って、案外、不可能じゃないかもしれません。

 

まずは、克服しなければならない理由を自分に言い聞かせて、

あとは、「だいじょーぶ、だいじょーぶ。落ち着いて、落ち着いて。」と自分に言い聞かせるのです。

すると、あれ不思議、ある日、突然、苦手だったと思っていた物や人の魅力に気が付いた自分を発見し、新しい世界が広がるのでした~。めでたし、めでたし。

 

でも、やっぱり蛾の羽や腹の模様は、今でもゾゾゾゾゾォォォォ~。

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お好きですか?

日本の心

世界中の若者らの間で人気のアニメや漫画。

最近の作品は、子供たちが好きな物の名前が分かるぐらいで

詳しい中身は分かりませんが、

日本人だったら、大抵一つは好きなものがある

、と言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

私が唯一好きだった漫画は「ガラスの仮面」。

学校で演劇クラブに入っていたのも影響しているのかと思います。

これは、長く続いてますよね。何世代もまたいでいるので、

登場人物の服装やセリフなどにも時代の重みが感じられて

それがまたいいんですよね。

 

そう考えると漫画も一つの立派な歴史的資料。

 

アニメが媒体となって、世界の若者たちは日本に興味をもち、

「一度は行ってみたい国」となっています。

ランドセルをしょった若者たちの映像も出回ってますよね。

 

きっかけが何にせよ、それで日本が好きな人が増えるのは、やっぱり嬉しいものです。

 

外国暮らしをして思うのは、年配の方にも日本に興味を持っている人が多い事です。

こちらは健康方面(緑茶や豆腐、こんにゃくなど)、芸術方面(映画、小説、美術や音楽関連)、伝統文化方面(茶道、生け花、折り紙)、スポーツ(柔道、合気道、や空手)など、興味の対象が多岐に渡ります。

日本の伝統文化や芸術、スポーツの事を少し踏み込んで話そうとすると

いつも行きつくところは神道であり和の心です。

 

神道では、八百万の神々が人が暮らす世界の隅々に宿り、

我々人間もどんなにあがいて、抵抗しても、所詮は自然の一部であり、

大きな力には屈服するしかないという、人間の無力さが根底にあるのだと思います。

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この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空

                     (新葉和歌集 十六雑 後醍醐天皇御製)

簡単に言えば

「人は、自然に生かされており、自分以外の人を含め、

神の宿る森羅万象と助け合ってでなければ生きてはいけない。」

という事でしょうか。(間違っていたらスミマセン。宗教家ではアリマセン。)

 

この思想には、他の文化や宗教思想に矛盾する事なく、人が穏やかに幸せに暮らしていくための普遍的な教えが凝縮されているのだと思います。

 

どのような文化でも、どのような宗教でも、おそらく

「周りは全て敵だ!戦え、そして征服しろ!それだけが幸福への道だ!」

とは教えていないはずです。

 

古い時代、人が小さな集団で狩りをしながら暮らしていた頃。

自然をおそれ、自然の恵みに感謝しながら、皆で心を合わせて生きていた頃。

その頃から、何にも矛盾する事なく続いているのが神道の神髄ではないでしょうか。

 

この古い時代は、時期こそ異なりますが、世界中で人類が必ず共有した時代です。

そこに遡る思想に立ち返れば、苦しい時期を乗り越えるヒントがみつかるのかもしれません。