手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

善意が孕む危険

今朝は朝方4時過ぎに目が覚めて、眠れませんでした。

そういう年頃になってきた、ということでしょうか。

 

で、2時間ほど寝床で考えていた事は…

世界中で紛争が絶えないのは、やはり人間のせいなのか?

について。

 

私自身は、できるだけ争い事は避けて、平穏に暮らしたいタイプです。

そして、世界中の大多数の方も、きっとそうなのではないかと思います。

 

では、なぜ、大多数が求めているはずの平和が現実にならないのか。

それは、きっと本(もと)を正せば、自分の大切な人や物、信仰を守るためなのではないでしょうか。

 

例えば、もし私がある程度の領地をもった殿様の息子として生まれたとします。屋敷には祖母と母上、それに妹が暮らしています。とても仲のいい家族で、生まれて18年、とても幸せに暮らしてきました。

父親である殿様はとても賢明な人で、無駄遣いもせず、領地をきちんと治め、領民も比較的幸せに暮らしています。税収も安定しており、年々景気は上向いているようでした。

しかし、ある年を境に、イネの病気が蔓延、お米の収量が激減する年が続きました。

とはいえ、隣の領地に比べると灌漑用水路も整い、殿様の命で、稲の専門家が田んぼを見て回り、農家に色々助言や援助をしたかいあって、危機的な状況は免れました。

それに比べ、隣の領地は飢餓死が続出する始末。度々支援を求められますが、父は自分の領民を守らなくてはならないため、申し訳程度の支援しかしませんでした。

隣の殿様たちは、父を逆恨みし、手を組んで父の領地に攻め入り乗っ取ろうとします。

これまで、戦う事など考えてもみなかった父と息子ですが、自分の家族、領地と領民の事を考えると、さて、どうするか。戦うとなると、自分も戦場に出て敵と斬り合う事になります。

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人間は、本来、善良であると信じたい。

でも、自分の大切な人や物、信念や信仰が危険に晒される時、

それを守るために戦おうとする意欲が生まれるのではないでしょうか。

これは動物的な本能とも言えます。

ただ、動物と人間との違いは、その意欲が、多くの場合、価値観を共有する人の間で正当化され、戦いが大きくなってしまう

事でしょう。

そして、今日も「家族のために!」「信仰のために!」「国のために!」「自由のために!」と大切な命が途絶えてしまいます。

 

Hell is full of good intentions or desires. Saint Bernard of Clairvaux (1091-1153)

「地獄は善意と善良な願いであふれている。」

 

私にできる事は何もありません。

ただ、そういう争いが身近で起きた時、

「あの人が私たちの大切なモノを踏みにじる事はないでしょう。」、と

弁護できる/される側でありたいと思います。

 

 

 

ヨハン セバスチャン バッハ Jesu bleibet meine Freude

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古本屋で見つけた「Alfred's Basic Piano Library Classic Themes」。

一見、音符もまばらで、少し練習したら弾けそうな感じがするので、

挑戦してみる事にしました。

 

まずは右手のメロディーから。

音符自体、読むのは難しくありませんが、決められた指を使って弾かないと、

あっという間に指が足りなくなって、気の向くままには弾けません。

無理にあらがうと、指が変に交差したり、広がったりして…

「アイタタッ」、

と手首の上辺りから指先まで吊りそうになります。

やはり指使いの指示のある所は、ちゃんと理由があっての事なんだな、と感心し、

納得し、今度は素直に従う事に。

 

「失敗して痛い目をみて、体得していく」を実践中。

何事にも通じる様な気がします。ハイ。

 

で、曲の方ですが、初心者用にアレンジしてあるにも関わらず、

流石バッハさん、素人の私の心にも強く切なく美しく響くのです。

そして、なんと私でさえも聞き憶えのある曲です。

きっと、クラシックがお好きな方にすれば、

「おのれ、こんな有名な曲も知らんのか!恥を知れ!」

、とお怒りをかうやもしれませんが、なにぶん、無知なので、お許しください。

 

で、私と知識のレベルが同等の方で(どの位いらっしゃるか不安ですが…)、

「興味があるな」と思われる方々のためのリンクです。視聴もできますよ。

http://www.worldfolksong.com/classical/bach/jesu-joy-bach.html

 

ちなみにオリジナルはというと

 

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こんな感じです。

こうしてみると、私の教本に載っているのは、オリジナルの一段目だけですが、

そこまで大きくアレンジされていないように見えます。

 

という事は、かつてバッハさんが作曲したように、

時を超えて今、私がピアノを奏でているという事!?

この美しい曲を、何とか流れる様に弾きたい!

さあ、一人でどこまで弾ける様になりますか。

 

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バッハさんは言っていました。

It's easy to play any musical instrument: all you
have to do is touch the right key at the right
time and the instrument will play itself. -- J.S. Bach 

(*注:バッハさんはドイツ人。なので、おそらくドイツ語で言ったのだと思われます。)

「どんな楽器も弾くのは簡単ですよ。

だって、ただ、正しい音を正しいタイミングで出すだけで、

楽器が音楽を奏でてくれるんですから。」J.S.バッハ

J.S.B: 「何度言ったら分かるんだ!だから、そこは、タイミングが違ーうっ!!」

わたし:「そ、そんなに、怒らないでください、バッハさん。」

 

目指すは、(バッハさんが苦虫を嚙み潰したような形相で見守る中?)

悦に入って弾く事です。

あんぱん

いつも当たり前に食べている物が突然食べられなくなってしまったら…

そんな事を考えた事はありますか?

例えば、コンビニで時々買うコーヒーゼリーや、スーパーで買う大福。

豆腐、こんにゃく、たらこでも、納豆だっていいんです。

 

毎日食べなくても、食べたいと思えば、いつでも買える。

そんな物が、はるばる遠くまで行って大枚をはたかないと手に入らなくなってしまったら…。

 

実は、私、現在外国暮らしをしております。

言葉の不自由さもそうですが、一番辛いのは懐かしい味を切に求める舌です。

口です。お腹なのです。

 

一度「あぁ、あんぱんが食べたいな~。」、と思ったとします。

日本にいる時、あんぱんのファンだったわけでは決してありませんよ。

でも、一度「あんぱん」の存在を意識した舌は、

1.電車で1時間以上かけて、街中へ出ていき

2.地下鉄を乗り継いで、

3.ようやくあんぱんが買えるお店に行っても必ずあるとは限らないし、

あっても確実に日本の3倍位の値段はする、

という、とっても不便な事実にも関わらず、翌日も、その翌日も

「あああああああ、あんぱんが食べたぁぁぁぁい!!!!」、と

徐々に増大する理不尽な欲求が、私を苦しめるのです。

 

そして、症状がいよいよ悪化してくると、買い物に行くたびに

「小豆さえあれば、それであんこが作れる。あんこさえあれば、あんぱんが作れるじゃないか。そう。小豆、小豆、小豆…」と、半分祈るようにお豆のセクションを何度も注意深く見るようになります。

 

そして、数か月苦しんだ、あれは確か今年の春先です。

たまたま入ったオーガニックの商品を取り扱うお店で、

とうとうAzukiを見つけた時の喜びは格別で、自分でも驚くほどでした!

そして、小さな小豆がくれた幸せは秋を迎えた今も続いていますよ。

だって、あんこさえあれば、あっという間に和のおやつができるんですから。

「嬉しさや 大豆小豆の 庭の秋」村上鬼城

 

次が、あまり難題ではありませんように。

 

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芸術の秋

私の父方の祖父は、若くして亡くなったので、会った事はありません。

でも母の話によると、祖父は、小さい頃から絵を描くのが好きだったそうで、

どうしても画家として暮らしを立てていきたいと、16か17才の時、地元出身の有名な日本画家の門を叩きました。

 

「弟子入りさせて下さい!」

「ふむ。何歳になる?」

「16です。」

「ふむ。で、これまで誰の下で勉強してきた?」

「あ、あの…、画家先生にこうしてお願いにあがるのは今回が初めてです。」

「何?それじゃ、だめだ。年をくいすぎとる。」

「で、でも…」

ピシャッ

、と無下に門前払いを受けてしまいました。

 

それでも、町では「○○君は絵もうまいし、字もなかなか」というのは知れていたようで、商店の看板や広告を書いたり、表札を書いたりしながら生計を立てていたそうです。

 

その影響からか、父も絵が上手でしたし、書初めのお手本などもよく書いてもらいました。

で、私は、と言えば、子供の頃、何事にも熱中して取り組んだ覚えは…ありません。「やれば、できるのに」、と、周りの大人にあきらめ気味に言われても、

「春の海 ひねもす のたりのたりかな」蕪村

陽光に温められた、穏やかな海の水に、ぷっかりと浮かんでいる感じでしょうか。

大きな悩み事もなく、きっと幸せだったんでしょうね。

 

自分を発見したのは専門学校時代。

中学、高校とまったく勉強しなかったので、第一志望の大学には当然のごとく落ちて、浪人して翌年また挑戦したいという強い意志もなく入った専門学校でした。

でも、その学校が私にはとても合っていて、先生方は「何事も最初はできなくて当たり前。スタート地点は皆ゼロ。そこから頑張れは、その分だけ必ずプラスになる。」というスタンス。入学時点でゼロである事を許してくれたのです!

あの二年間は、人生で初めて自分の意志で勉強し、自由に楽しみながら興味の幅を広げられた時期でした。その頃、初めて父と二人で国展に行きました。美術関連の本も開いて見るようになり、ゆっくりと絵画の面白さが見えてきました。

あくまでも、個人的な感想ですが…

 

例えば、京都のとある石庭を前に誰かと座っているとします。

「あの岩、何かに似てるよね…。あー、龍だ!ね、龍の頭!見える?」

「えっ?どれ?」

「あの右から、1つ、2つ、3つ目のあれ!ほら、あのくぼみが目で、あの上の尖ったところが角で…。見える?」

「うーん…。っていうか、どっちかというとウサギ、じゃない?」

 「ウサギ…???」

いくら、趣味の合う仲のいい友達でも、大好きな恋人でも、その人の目に何がどんな風に見えているかは、分からないものです。

それはきっと、脳が画像を処理する時に、これまでの経験や知識、その日の気分や天気、その時に聞いている音楽など、とにかく色んな事が影響するから。

 

それを垣間見る事ができるのが絵画だと思うのです。

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いいなぁ、と思う一枚の絵の前に立つ時、その画家のモデルやモチーフに対する思い、

画家としての挑戦、絵に込めたメッセージ、画家のこれまでの人生などに思いを馳せ、その物語を感じる事ができるんです。そして、なぜその絵に自分が魅かれるのか、自分とも向き合えます。

 

芸術の秋。秋晴れの日に、美術館というのもなんですが、自分だけの名作を探しに出かけてみませんか。大きな美術館に行くと、思ったより歩くので(階段を使いましょう!)軽い散歩より運動になるかもしれません。

 

 

季節の移ろい

年を重ねる毎に、自然の大きさや力強さに感動するようになってきました。

「私が年老いて、土に返ってしまっても、この大きな木は、これまでのように、少しずつ枝を伸ばし、根をのばし、ゆっくり大きくなって、花をつけ、実を結び、鳥や虫、動物たちの拠り所となりながら生きていくんだろうな」、と思うと、自分のちっぽけさに軽いショックを受けながらも、人間も自然の一部に過ぎないのか、とちょっと救われる気もします。

 

そういう自分に気が付いて、自分が日本人である事を再認識。

きっと、日本の古き良き伝統や考え方は、いつも大きな自然と調和しながら育まれてきたから、

その中で生まれ生きてきた私も、知らず知らずのうちに、そのエッセンスに影響されて、

遺伝子上だけでなく、心も感性も日本人になっていたんだと思います。

 

秋。草木が葉を鮮やかに色づかせていますね。

あまりの美しさに、吸い寄せられて近づくと、

葉っぱ一枚一枚の少しずつ形や色合いが違う様子も、とてもいいものですね。

「秋は夕暮れ。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つみつなど、とびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちいさくみゆるは、いとおかし。日入はてて、風の音むしの音などいとあはれなり。」(枕草子1段)

日本人は、昔から、仕事の合間、ふと顔をあげて、夕暮れ時、空が沈んでいく太陽に染まるのを見る時、少なからず皆、一瞬肩から上辺り脱力しながら「はぁ、きれいだなぁ。」と、思うのではないでしょうか。ストレスでアチコチ力入り過ぎちゃっている時、ちょっと顔を上げてみましょう。

きれいに晴れ渡る秋の一日、夕焼けに染まる紅葉を見にどこかへ出かけたいな。

でも、たっぷり歩いたら、どこかに座って温かいお茶と甘い物も頂きたい。

やっぱり行楽の秋。食欲の秋。確かもう一つ…。

あっ、ブログの秋…?

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音楽

どんな音楽でも、歌を歌う人、楽器を奏でる人が

心に響くリズムやメロディーを作り出すのを聞くと

「いいなぁ。あんな風に歌えたら(弾けたら)どんなに気持ちがいいだろう!」、と

いつも思っていました。

 

子供のころは、大家族だった事もあり、兄弟姉妹、ことごとく習い事とは無縁でした。

でも兄達は誰かからもらった古いフォークギター一本を使いまわし自分たちで練習して

好きなポップスを弾きながら歌える位になっていたし、

姉も吹奏楽部に入ってで楽譜を読めるようになり、働きだした時にフルートを買って、友達の結婚式で演奏できるぐらいまで上達しました。

だから、私は昔から「いいなぁ。」といつも思っていても、

いざ、独学でもできる所までやってみよう、という程のやる気がなかったという事なのでしょう。

 

大人になって、時々、音楽に周りの風景の見え方を変えたり、

自分でも知らなかった感情を解き放つ力がある事を実感するようになり始め、

音楽の良さを再認識。「いいなぁ。」に、やや力がこもるようになりました。

 

今、親になってみて子供たちが、何の縁か音楽に興味を持ちはじめ

ピアノを習い始めました。段々、上手になるわが子を見ていて、

ようやく「いいなぁ」の域を超え、「案外一から始めれば、できない事はなさそうだ」

という心境に至りました。

 

そこで、子供のレッスン時には、子供より一生懸命先生の話を聞き、一人で練習始めました!

 

飽き性な私も、いう事を聞かない指と、こんがらがる脳みそと格闘しながらも、今のところは、ほとんど毎日、楽しみながらピアノの前に座っています。飽きずに練習してると、中古で買ったふるーいピアノも、時々とってもいい音を出してくれる様になり愛着も湧いてきました。

 

目下のささやかな目標は家族や友達の集まりで、ちょっと弾いて

「えー、ピアノ弾けるってしらなかった。うまいじゃない。他にも何か弾けるの?」

ぐらいのコメントを引き出す事でしょうか。

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いざ漕ぎ出でよ

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ここ数年、ずっとブログはじめてみたいと思っていました。

でも、もともと何をしても長続きしないタイプなので、迷ってました。

 

で、なぜ意を決して始める事にしたかというと…。

友人に赤ちゃんが生まれました。命の輝きが、とにかくまぶしいのです。

私にも子供がいますが、ずいぶん大きくなり

生まれた時の感動はいつの間にか色あせて

今では「一人前の大人に」なってもらうため、あれしなさい、それはだめ、のよく言えば助言、

悪く言えば命令と禁止を繰り返す毎日。

 

人は誰でも生まれてくる時には裸んぼう。

だけど、小さいときに読んだ「青い鳥」のにもあったように、

きっと人は、命が与えられると同時に一つの使命とそれを全うするための才能が

与えられているのだと信じたい。

「とにかく、信じて進むのだ!」、と皆、背中を押されて生まれてきた。

命と一緒にもらった大切な宝物は、まずは生き残りをかけた戦いを勝ち抜くため

大事に保管される。でもその戦いは思いのほか長く続いて

絶対に忘れてはならないはずの、もう一つの宝物は置き場所も何も忘れられてしまう。

 

今、そのもう一つの宝物を探す時がきました。

私の子供たちだけじゃなく、私自身もです。

なぜなら、与えられた使命はとても尊いもので、その使命が果たせなければ

必ずどこかに小さなひずみが起きてしまうと思うから。

 

その使命は、ただ、いるべき場所に、いるべき時間に、ある人の隣に座っているだけの事かもしれない。でも、そこへたどり着くのは簡単なようで至難の業。

今、ここにこの家族と一緒に暮らしているのも奇跡のようなものですものね。

 

何もしないことで、ひずみを起こしてしまわないように。

何もしないことで、今ある調和が崩れてしまわないように。

 

私のもう一つの宝物探しの第一歩を踏み出すため、

そして、その道のりを記すために、このブログを始めてみる事にしました。

 

このブログを書くことで、一見同じことの繰り返しのように見える毎日を

新しい視線で見なおし、新しい発見と感動が感じられるようになりますように。

 

では、いざ、宝物探しの旅に出発です。

皆さんも一緒に出掛けてみませんか。