手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

ここにあったか、英会話上達の壁

言葉って大切ですよね。

伝えたい事があっても、それを伝える言葉がなければ、

相手には分かってもらえませんから。

 

でも、生まれ育った日本語を何となく使っていると

言葉の大切さは、あまり実感できないもの。

伝えようと意識しなくても、いい友達や家族は、

言葉の足りない部分をちゃんと補って理解してくれますものね。

これが、母国語のいい所でもあるんですが。

 

しかし、多くの方が経験されている事かと思いますが、

外国の地で外国語で話すとなると、とても大変ですよね。

 

私も外国暮らしが長いので、それは痛感しています。

高校卒業後、専門学校2年間で、できるだけ英語を勉強しました。

留学する際に必要な、TOEFLという英語習熟度テストでも、入学基準クリアし、

英語を勉強した証として英検も取り、

その他、シドニーシェルダンのベストセラー小説やトールキンホビットを原文で読み、BSで英語の番組を毎日見て…と、

とにかく、英語が勉強の足かせにならないように、準備万端(のつもり)で留学先へ向かったのです。

 

あれは、20才の夏でした。

 

そして大学生活が始まりました。

講義の内容は思ったよりよく分かり、テストの成績も上々でした。

 

が、私を憂鬱にさせていたのはグループワーク。

アメリカでは、やたらに多いこのアクティビティ。

最初に直面した問題は…

1.若者たちの話す英語が半分も分からない。(『先生が言ってる事は殆どわかるのにぃ、なんでぇ~??』、と毎回焦り、)

2.課題から脱線して、雑談に興じる若者達が何を話しているかも分からない。(アメリカのポップカルチャーなるものには全く興味はなく、その頃はインターネットもなかったので。。。世代がバレバレですね。。。チヤチャっと検索もできず、『全くついていけな~い!』と混乱し、)

3.肝心の課題にかける残された数分間で、いきなり深い問題を突きつけられて返事に困る。(「…で、○○さん、あなたは異文化理解において一番大切な事は何だと思いますか。エピソードも交えて、どうぞ。」『えっ、何、考える時間はないの?ちょっと待ってよぉ~。』パニックに陥る。)

 

そして、クラスの若者たちには、「あの日本人、何か陰気だし、使えないよね~」と

敬遠される羽目に。

 

最初は「あー、もっと英語勉強しないと…。考える間を持たせるような英語…」

と全て英語力のせいにしていました。

 

でも、この傾向は学部生生活3年間、ずーっと続く事になります。

どうしても、ここぞ、という時には、頭が白くなり言葉が出ない。

日常会話には不便がなくなり、英語も比較的自由に使えるようになっていたのにも関わらず、です。

 

そして、気づきの瞬間。

大学のチュータリング・センターで、日本語会話練習の相手をしていた時のこと。

私:「今日は、朝何時に起きましたか?」

学生:「7時です。」

私:「そうですか。朝ごはんは食べましたか?」

学生:「はい。食べました」

私:「何を食べましたか?」

学生:「サンドイッチです。」

私:「そうですか。どんなサンドイッチですか?」

学生:「ピーナッツバターサンドイッチです。」

私:「あ、ピーナッツバターは、美味しいですよね。私も好きです。」

学生:「そうですね。僕も好きです。毎日食べます。」

 

ーーここまでは、とっても上手でした。しかし…

 

私:「本は好きですか?」

学生:「はい、好きです」

私:「そうですか。私も好きです。どんな本が好きですか?」

学生:「…」

私:『聞き方がまずかったかな。じゃ…』「最近、読んだ本をおしえてください。」

学生:「サイキン…」

私:「あっ、最後に読んだ本でもいいですよ。」

学生:「はい。…」(かなり、深く考えている様子。)

 

最終的に、この学生は、雑誌と教科書以外に本は読んでおらず、「好きだ」と言ってしまった手前、何かいい答えを出したかったが、最後に読んだ本も思い出せず、頭の中が迷路状態になり、何も言えませんでした。

 

そう。話せなかったのは言葉の問題ではなかったんです。

「言うべき事が見つからなかっただけ」だったのです。

 

言葉が生まれたのは伝えるべき事があったから。

 「大和歌は 人の心を種として よろずの言の葉とぞなりける」(古今和歌集

 

でも案外、言葉の大本となる「心の種」=伝えるべき事の部分が

外国語で会話する時に一番厄介な問題なのです。

「言うべき事」「伝えたい事」が、モヤモヤしていて、言い表そうにも、

掴みどころがなくて、何をどう説明していいか、皆目見当がつかないのです。

 

それからは、とにかく色んな事について自問自答を意識するようにしました。

自分の考えや知識がハッキリしていれば、伝えたい事も自然と明確になり、

それを言葉にしやすくなります。

 

日本であれば、友達と映画を見に行った帰り、

「あ~、良かったよね。何か癒されたよね…。」

「本当、良かったよね。泣いちゃったもん。」

「私も~。」

と自然に共感できて、満たされた気持ちになる。

気の合う、いい友達で、多くの言葉がいらない関係は、とても素敵です。

 

でも、外国の地で、そんな友達を見つけるのは至難の業です。

そういう境地に至るまでは、自分の考えや感じ方を繰り返し説明して、相手の事を知るために色んな質問を投げかけないといけません。そして、意見の主張も忘れてはいけません…。

 

どこが、どんな風に良かったのか。どのシーンで、なぜ泣いちゃったのか。何が心を動かしたか。どの俳優が良かったか。どのセリフが心に残ったか等々、意識していないと言葉にできない事って本当に多いんですよね。

 

日本は、きっと、「多く語るのは野暮」な文化。以心伝心が大切で、目が語り、背中が語り、仕事ぶりが語る社会。だからもともと説明下手な人種なんでしょうね。

 

勉強しているのに、英会話がなかなか上手くならない、と思っている方、

是非、英単語やイディオムの勉強を少し離れて、「伝えたい事」に集中してみて下さい。

 

伝えたい事が明確にさえなれば、知っている単語を駆使するだけで、何とか要点は伝わるようになります!

 

そして、私は、と言えば、目下フランス語を勉強中です。

果たして学んだ事が生かせるか?

 

À tout à l'heure!

 

 

 

 

 

 

カマキリ

虫は好きですか?

私は小さい頃から虫が苦手でした。

虫と言ってすぐに思い出すのは、夏。近くの神社の境内で蝉取りをする子供たち。

網の中で「ジー、ジー」と音を立てて、羽をバタバタさせる様子。

真っ黒い小さな眼が、時々光を反射して白い点が浮かび上がるところ。

子供心に、恐怖を感じていました。

あとは、昆虫の標本作り用の薬品を入れた注射器も覚えています。

誰が持っていたのか、記憶が定かではありませんでしたが、

自分が使うわけでもないのに、何か悪い秘密を見てしまった様な気がしました。

 

それに追い打ちをかけるように、色んな昆虫に関する情報や映像が、いつの間にか、「今に、立場が逆転する。巨大化した昆虫に襲われる。」、と想像力が暴走し始め、

思春期を迎える頃には、モンシロチョウも嫌いになりました。

 

でも、大人になって、田舎を離れ、虫と遭遇する事も少なくなり、虫への恐怖心も徐々に薄らいできました。

 

そして、親になり、子供の可能性がどこにあるか分からない時に、

親の好き嫌いで、子供の興味を制限してはいけないと思い、できるだけ中立の立場をとる努力をしてきました。

「蜘蛛がいる~っ」

『ひぇ~っ、蜘蛛!かなり大きいし…』と思いながらも

「あら、本当。家の中が暖かいから、どこからか入ってきたんだね。逃がしてあげよう。」とできるだけ平静を装って、旦那の所へ助けを求めに行く。

「天井に何かとまってるよ~」

『ひぇ~、あの目の玉のような模様。何とかして~』と思いながらも、

「あら、本当。蛾ね。大丈夫、刺したりしないから。」と、まったく動じていないふりをして、旦那の所へ…。

 

そうこうするうちに、自分で自分のマインドコントロールに成功したのか、本当にあまり怖くなくなってきました。

 

そして一昨日。娘が、人生初の遭遇を果たしました。

「ママ~、何かいる~っ!」

「何何?」

「ここ、ここ、見て~!」

「おー、カマキリじゃない。カッコイイね。」

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「カッコイイ」。そう、昆虫を前に、旦那にも使わない誉め言葉を使ったのです!

人間、ここまで変われるものかと、我ながらアッパレです。

苦手を克服する事って、案外、不可能じゃないかもしれません。

 

まずは、克服しなければならない理由を自分に言い聞かせて、

あとは、「だいじょーぶ、だいじょーぶ。落ち着いて、落ち着いて。」と自分に言い聞かせるのです。

すると、あれ不思議、ある日、突然、苦手だったと思っていた物や人の魅力に気が付いた自分を発見し、新しい世界が広がるのでした~。めでたし、めでたし。

 

でも、やっぱり蛾の羽や腹の模様は、今でもゾゾゾゾゾォォォォ~。

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お好きですか?

日本の心

世界中の若者らの間で人気のアニメや漫画。

最近の作品は、子供たちが好きな物の名前が分かるぐらいで

詳しい中身は分かりませんが、

日本人だったら、大抵一つは好きなものがある

、と言っても過言ではないのではないでしょうか。

 

私が唯一好きだった漫画は「ガラスの仮面」。

学校で演劇クラブに入っていたのも影響しているのかと思います。

これは、長く続いてますよね。何世代もまたいでいるので、

登場人物の服装やセリフなどにも時代の重みが感じられて

それがまたいいんですよね。

 

そう考えると漫画も一つの立派な歴史的資料。

 

アニメが媒体となって、世界の若者たちは日本に興味をもち、

「一度は行ってみたい国」となっています。

ランドセルをしょった若者たちの映像も出回ってますよね。

 

きっかけが何にせよ、それで日本が好きな人が増えるのは、やっぱり嬉しいものです。

 

外国暮らしをして思うのは、年配の方にも日本に興味を持っている人が多い事です。

こちらは健康方面(緑茶や豆腐、こんにゃくなど)、芸術方面(映画、小説、美術や音楽関連)、伝統文化方面(茶道、生け花、折り紙)、スポーツ(柔道、合気道、や空手)など、興味の対象が多岐に渡ります。

日本の伝統文化や芸術、スポーツの事を少し踏み込んで話そうとすると

いつも行きつくところは神道であり和の心です。

 

神道では、八百万の神々が人が暮らす世界の隅々に宿り、

我々人間もどんなにあがいて、抵抗しても、所詮は自然の一部であり、

大きな力には屈服するしかないという、人間の無力さが根底にあるのだと思います。

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この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空

                     (新葉和歌集 十六雑 後醍醐天皇御製)

簡単に言えば

「人は、自然に生かされており、自分以外の人を含め、

神の宿る森羅万象と助け合ってでなければ生きてはいけない。」

という事でしょうか。(間違っていたらスミマセン。宗教家ではアリマセン。)

 

この思想には、他の文化や宗教思想に矛盾する事なく、人が穏やかに幸せに暮らしていくための普遍的な教えが凝縮されているのだと思います。

 

どのような文化でも、どのような宗教でも、おそらく

「周りは全て敵だ!戦え、そして征服しろ!それだけが幸福への道だ!」

とは教えていないはずです。

 

古い時代、人が小さな集団で狩りをしながら暮らしていた頃。

自然をおそれ、自然の恵みに感謝しながら、皆で心を合わせて生きていた頃。

その頃から、何にも矛盾する事なく続いているのが神道の神髄ではないでしょうか。

 

この古い時代は、時期こそ異なりますが、世界中で人類が必ず共有した時代です。

そこに遡る思想に立ち返れば、苦しい時期を乗り越えるヒントがみつかるのかもしれません。

 

 

 

 

善意が孕む危険

今朝は朝方4時過ぎに目が覚めて、眠れませんでした。

そういう年頃になってきた、ということでしょうか。

 

で、2時間ほど寝床で考えていた事は…

世界中で紛争が絶えないのは、やはり人間のせいなのか?

について。

 

私自身は、できるだけ争い事は避けて、平穏に暮らしたいタイプです。

そして、世界中の大多数の方も、きっとそうなのではないかと思います。

 

では、なぜ、大多数が求めているはずの平和が現実にならないのか。

それは、きっと本(もと)を正せば、自分の大切な人や物、信仰を守るためなのではないでしょうか。

 

例えば、もし私がある程度の領地をもった殿様の息子として生まれたとします。屋敷には祖母と母上、それに妹が暮らしています。とても仲のいい家族で、生まれて18年、とても幸せに暮らしてきました。

父親である殿様はとても賢明な人で、無駄遣いもせず、領地をきちんと治め、領民も比較的幸せに暮らしています。税収も安定しており、年々景気は上向いているようでした。

しかし、ある年を境に、イネの病気が蔓延、お米の収量が激減する年が続きました。

とはいえ、隣の領地に比べると灌漑用水路も整い、殿様の命で、稲の専門家が田んぼを見て回り、農家に色々助言や援助をしたかいあって、危機的な状況は免れました。

それに比べ、隣の領地は飢餓死が続出する始末。度々支援を求められますが、父は自分の領民を守らなくてはならないため、申し訳程度の支援しかしませんでした。

隣の殿様たちは、父を逆恨みし、手を組んで父の領地に攻め入り乗っ取ろうとします。

これまで、戦う事など考えてもみなかった父と息子ですが、自分の家族、領地と領民の事を考えると、さて、どうするか。戦うとなると、自分も戦場に出て敵と斬り合う事になります。

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人間は、本来、善良であると信じたい。

でも、自分の大切な人や物、信念や信仰が危険に晒される時、

それを守るために戦おうとする意欲が生まれるのではないでしょうか。

これは動物的な本能とも言えます。

ただ、動物と人間との違いは、その意欲が、多くの場合、価値観を共有する人の間で正当化され、戦いが大きくなってしまう

事でしょう。

そして、今日も「家族のために!」「信仰のために!」「国のために!」「自由のために!」と大切な命が途絶えてしまいます。

 

Hell is full of good intentions or desires. Saint Bernard of Clairvaux (1091-1153)

「地獄は善意と善良な願いであふれている。」

 

私にできる事は何もありません。

ただ、そういう争いが身近で起きた時、

「あの人が私たちの大切なモノを踏みにじる事はないでしょう。」、と

弁護できる/される側でありたいと思います。

 

 

 

ヨハン セバスチャン バッハ Jesu bleibet meine Freude

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古本屋で見つけた「Alfred's Basic Piano Library Classic Themes」。

一見、音符もまばらで、少し練習したら弾けそうな感じがするので、

挑戦してみる事にしました。

 

まずは右手のメロディーから。

音符自体、読むのは難しくありませんが、決められた指を使って弾かないと、

あっという間に指が足りなくなって、気の向くままには弾けません。

無理にあらがうと、指が変に交差したり、広がったりして…

「アイタタッ」、

と手首の上辺りから指先まで吊りそうになります。

やはり指使いの指示のある所は、ちゃんと理由があっての事なんだな、と感心し、

納得し、今度は素直に従う事に。

 

「失敗して痛い目をみて、体得していく」を実践中。

何事にも通じる様な気がします。ハイ。

 

で、曲の方ですが、初心者用にアレンジしてあるにも関わらず、

流石バッハさん、素人の私の心にも強く切なく美しく響くのです。

そして、なんと私でさえも聞き憶えのある曲です。

きっと、クラシックがお好きな方にすれば、

「おのれ、こんな有名な曲も知らんのか!恥を知れ!」

、とお怒りをかうやもしれませんが、なにぶん、無知なので、お許しください。

 

で、私と知識のレベルが同等の方で(どの位いらっしゃるか不安ですが…)、

「興味があるな」と思われる方々のためのリンクです。視聴もできますよ。

http://www.worldfolksong.com/classical/bach/jesu-joy-bach.html

 

ちなみにオリジナルはというと

 

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こんな感じです。

こうしてみると、私の教本に載っているのは、オリジナルの一段目だけですが、

そこまで大きくアレンジされていないように見えます。

 

という事は、かつてバッハさんが作曲したように、

時を超えて今、私がピアノを奏でているという事!?

この美しい曲を、何とか流れる様に弾きたい!

さあ、一人でどこまで弾ける様になりますか。

 

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バッハさんは言っていました。

It's easy to play any musical instrument: all you
have to do is touch the right key at the right
time and the instrument will play itself. -- J.S. Bach 

(*注:バッハさんはドイツ人。なので、おそらくドイツ語で言ったのだと思われます。)

「どんな楽器も弾くのは簡単ですよ。

だって、ただ、正しい音を正しいタイミングで出すだけで、

楽器が音楽を奏でてくれるんですから。」J.S.バッハ

J.S.B: 「何度言ったら分かるんだ!だから、そこは、タイミングが違ーうっ!!」

わたし:「そ、そんなに、怒らないでください、バッハさん。」

 

目指すは、(バッハさんが苦虫を嚙み潰したような形相で見守る中?)

悦に入って弾く事です。

あんぱん

いつも当たり前に食べている物が突然食べられなくなってしまったら…

そんな事を考えた事はありますか?

例えば、コンビニで時々買うコーヒーゼリーや、スーパーで買う大福。

豆腐、こんにゃく、たらこでも、納豆だっていいんです。

 

毎日食べなくても、食べたいと思えば、いつでも買える。

そんな物が、はるばる遠くまで行って大枚をはたかないと手に入らなくなってしまったら…。

 

実は、私、現在外国暮らしをしております。

言葉の不自由さもそうですが、一番辛いのは懐かしい味を切に求める舌です。

口です。お腹なのです。

 

一度「あぁ、あんぱんが食べたいな~。」、と思ったとします。

日本にいる時、あんぱんのファンだったわけでは決してありませんよ。

でも、一度「あんぱん」の存在を意識した舌は、

1.電車で1時間以上かけて、街中へ出ていき

2.地下鉄を乗り継いで、

3.ようやくあんぱんが買えるお店に行っても必ずあるとは限らないし、

あっても確実に日本の3倍位の値段はする、

という、とっても不便な事実にも関わらず、翌日も、その翌日も

「あああああああ、あんぱんが食べたぁぁぁぁい!!!!」、と

徐々に増大する理不尽な欲求が、私を苦しめるのです。

 

そして、症状がいよいよ悪化してくると、買い物に行くたびに

「小豆さえあれば、それであんこが作れる。あんこさえあれば、あんぱんが作れるじゃないか。そう。小豆、小豆、小豆…」と、半分祈るようにお豆のセクションを何度も注意深く見るようになります。

 

そして、数か月苦しんだ、あれは確か今年の春先です。

たまたま入ったオーガニックの商品を取り扱うお店で、

とうとうAzukiを見つけた時の喜びは格別で、自分でも驚くほどでした!

そして、小さな小豆がくれた幸せは秋を迎えた今も続いていますよ。

だって、あんこさえあれば、あっという間に和のおやつができるんですから。

「嬉しさや 大豆小豆の 庭の秋」村上鬼城

 

次が、あまり難題ではありませんように。

 

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芸術の秋

私の父方の祖父は、若くして亡くなったので、会った事はありません。

でも母の話によると、祖父は、小さい頃から絵を描くのが好きだったそうで、

どうしても画家として暮らしを立てていきたいと、16か17才の時、地元出身の有名な日本画家の門を叩きました。

 

「弟子入りさせて下さい!」

「ふむ。何歳になる?」

「16です。」

「ふむ。で、これまで誰の下で勉強してきた?」

「あ、あの…、画家先生にこうしてお願いにあがるのは今回が初めてです。」

「何?それじゃ、だめだ。年をくいすぎとる。」

「で、でも…」

ピシャッ

、と無下に門前払いを受けてしまいました。

 

それでも、町では「○○君は絵もうまいし、字もなかなか」というのは知れていたようで、商店の看板や広告を書いたり、表札を書いたりしながら生計を立てていたそうです。

 

その影響からか、父も絵が上手でしたし、書初めのお手本などもよく書いてもらいました。

で、私は、と言えば、子供の頃、何事にも熱中して取り組んだ覚えは…ありません。「やれば、できるのに」、と、周りの大人にあきらめ気味に言われても、

「春の海 ひねもす のたりのたりかな」蕪村

陽光に温められた、穏やかな海の水に、ぷっかりと浮かんでいる感じでしょうか。

大きな悩み事もなく、きっと幸せだったんでしょうね。

 

自分を発見したのは専門学校時代。

中学、高校とまったく勉強しなかったので、第一志望の大学には当然のごとく落ちて、浪人して翌年また挑戦したいという強い意志もなく入った専門学校でした。

でも、その学校が私にはとても合っていて、先生方は「何事も最初はできなくて当たり前。スタート地点は皆ゼロ。そこから頑張れは、その分だけ必ずプラスになる。」というスタンス。入学時点でゼロである事を許してくれたのです!

あの二年間は、人生で初めて自分の意志で勉強し、自由に楽しみながら興味の幅を広げられた時期でした。その頃、初めて父と二人で国展に行きました。美術関連の本も開いて見るようになり、ゆっくりと絵画の面白さが見えてきました。

あくまでも、個人的な感想ですが…

 

例えば、京都のとある石庭を前に誰かと座っているとします。

「あの岩、何かに似てるよね…。あー、龍だ!ね、龍の頭!見える?」

「えっ?どれ?」

「あの右から、1つ、2つ、3つ目のあれ!ほら、あのくぼみが目で、あの上の尖ったところが角で…。見える?」

「うーん…。っていうか、どっちかというとウサギ、じゃない?」

 「ウサギ…???」

いくら、趣味の合う仲のいい友達でも、大好きな恋人でも、その人の目に何がどんな風に見えているかは、分からないものです。

それはきっと、脳が画像を処理する時に、これまでの経験や知識、その日の気分や天気、その時に聞いている音楽など、とにかく色んな事が影響するから。

 

それを垣間見る事ができるのが絵画だと思うのです。

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いいなぁ、と思う一枚の絵の前に立つ時、その画家のモデルやモチーフに対する思い、

画家としての挑戦、絵に込めたメッセージ、画家のこれまでの人生などに思いを馳せ、その物語を感じる事ができるんです。そして、なぜその絵に自分が魅かれるのか、自分とも向き合えます。

 

芸術の秋。秋晴れの日に、美術館というのもなんですが、自分だけの名作を探しに出かけてみませんか。大きな美術館に行くと、思ったより歩くので(階段を使いましょう!)軽い散歩より運動になるかもしれません。