手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

半引きこもり生活、脱出(とは、まだまだ言い切れません)

縁=何処をどう辿って、なぜ巡り合えたのか、皆目見当がつかず、偶然なのか奇跡なのか分からないけれど、大切にしなければならないもの(?)

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顔は知っていて、当たり障りのない会話はしても、友達とまでは呼べない人っていますよね。でも、そんな知り合いレベルの人のお陰で、人生に予期しなかった展開が訪れる事もあります。

 

私は、もともと積極的に新しい事に挑戦していくタイプではなく、新しい人と会う社交の場も苦手です。それに加え、基本、脳天気なので、多少の事では悩んだりせず、簡単に現状に満足(妥協?)できちゃうというのも、裏返せば向上心や冒険心に欠けている事になり、何をするにも二の足を踏んでしまいます。

 

ですが、不思議な事に、今振り返ってみると、積極的に自分から行動を起こしている訳ではないのに、徐々に半引きこもり生活から脱出する環境が整えられていきました。つい1年半前までは、子供の送り迎えと買い物、そして週2回のフランス語教室以外、家を出る事は滅多にありませんでした。それが、2016年春、ご近所さんから頼まれて、隣町の喫茶店を盛り上げるために、茶道をテーマに日本文化の紹介をしたのが転機となり、今年の夏までに計3回の講座を開き、そして何と先月からは、お給料を頂いて週一で日本語のクラスを教えるまでになりました!

 

とは言え、何をするにしても、(ちんたら勉強していたので)フランス語力が全く足りず、決まって誰かに背中を押される形でお世話になっています。なぜか、私ごときに貴重な時間を費やして応援してくれる人がいます。 そして、更に不思議な事には、お世話して下さる人たちはあくまで「お世話になっている知人」であり、「友達」と呼ぶにはまだまだ距離感がありすぎる方々です。

 

以前は、「縁」というと、家族だったり、夫婦だったり、恋人だったり、親友だったり、ともっと運命的な強いつながりを指すものだと思っていました。でも、ここへきて気づかされた事は、自分に近い存在の人達だけが「縁」を作り上げているのでは無いという事です。

 

人生、何処をどう辿り、どんな風に誰と出会うかは分かりませんが、自分が意識するしないに関らず、日々巡り合いが繰り返されています。 その巡り合いのお陰で、今、私が、フランスという国の、おそらくは世界の大多数の人が名前も聞いた事のない高齢化の進む小さな村に住みながら、やっと中級に引っかかる程度のフランス語力で、少しずつ社会参加を始めているのです!

どう考えても、自力だけで出来る事ではありません!

 

とすると、奇跡は、何気ない毎日の中に隠れている物の積み重なりなのかもしれません。

 

とにかく、これからは、恵まれた縁を大切にしながら、感謝の気持ちを忘れずに、周りの方々の縁も少しずつでも繋げていけたら嬉しいなと思います。

 

“Do not be afraid; our fate cannot be taken from us; it is a gift.” 

恐れる事はないさ。運は取り上げられたりなどしない。もともと運は贈り物なのだから。         -ダンテ・アリギエーリ