目まぐるしく過ぎる時間。
行き先へとせっせと足を運び行きかう人。
容赦なく流されていってしまう事への恐れと焦り。
湧き出ては置き換わる感情。矛盾し葛藤する渦巻く思い、考え。
人の気持ちって、一見とても複雑なようですが、ここの所、実は心の深い所に、
自分でも知らない静かな湖面があるんじゃないだろうか、というような気がしています。
アヌシー湖、 Paul Cezanne1896
風のない穏やかな日の湖面は、周りの風景を映し出す鏡。
見る角度によっては映る物は変わりますが、そこにある物をあるがままに映し出す事ができて、時には直接見るよりもその美しい個性がより強調されて輝いて見える事さえあります。
心の底にある湖も、本来、物の本質を映し出す事ができるのだと思います。でもそれはあまりに深い所にあり過ぎて、雑木や雑草に埋もれてしまい、普段は何が写っているのか分からないだけなのだと。
でも、いつもは静かな湖面も、時として風に吹かれ波を起こしたり、何かがその表面に触れたように綺麗な波紋を広げたりします。そうすると映し出される像は揺れて見えなくなってしまいますが、波動は感じる事はできるので、返って気が付きやすくなります。
それが、感動するという事なのかもしれません。
先日、観光がてらに入った教会で、平日だというのに、ミサが開かれていました。
中央の祭壇を前に十数名ほどの信者の方々が集まり、神父さんと共に讃美歌を歌い、祈りをささげ、修道女の方が読み上げる聖句に耳を傾けていました。
ここの所、ヨーロッパは物騒で、観光客が集まる場所には物々しい警備が敷かれ、教会内に護衛官が配置されていました。フランスでは去年、神父さんがテロリストに殺害される事件も起こっているので、自然な事かもしれません。
この教会では正面に、「建造時より一日も欠かさず祈りが捧げられています。」との垂れ幕がかかっていました。
フランスでは、信者であるかないかに関らず、ミサに集う事は自由です。教会の扉もいつも解放されています。まさに、「来るもの拒まず」の精神。
この日、私も、ミサの末席に列席させてもらいました。
フランス語の聞き取りがまだまだなので、全て理解できたわけではありません。
聖書は読んだ事はありますが、隅々まで読み込んだわけでは無く、よく分かっているわけでもありません。
でも、信者の方々が神父さんと共に心を合わせて一心に祈っている姿は美しく、徐々に観光客の騒めきが聞こえなくなり、警備員の厳めしい眼差しも背景に溶けてしまいました。そして、ミサに集うみんなの思いがそよ風となって、私の心の湖面に届きました。
さざ波が生まれ、静かですが確かな動きを生み、グッと喉元へ迫り、そして目元に到達すると、涙となって流れました。
言葉はよく分からなくても、私の心は人の祈りの力を感じとったのだと思います。
人は辛い時や悲しい時、自分の力ではどうにもならない事に直面した時に、祈ります。
自分が弱いと感じる時にこそ、偉大な力に慈悲の心を求める気持ちが生まれるんでしょうか。
人が手を合わせて、自分の無力さに肩を落としながらも、奇跡を願って心から祈る時、やはりそこには大きな力が宿るのだと思います。
その力は人に感動を与えて、時には行動を起こさせる原動力になり、そして時には奇跡を起こす事になるのかもしれません。
偉大な力は、生きとし生ける物の根底にある力。
私の心の湖も、あなたの心の湖も、もしかしたら源泉は同じなのかもしれません。
皆さん、何か願い事はありますか。
祈りのパワー、信じて、祈ってみませんか。