手持ち無沙汰な時、温かいお茶のお供にでもして頂ければ、うれしいです。

遺伝子治療AVXS-101

以前に当ブログで紹介した遺伝子治療AVXS-101の2018年1月に終了したフェーズ1臨床試験の結果概要がAveXis社とのインタビューで明らかにされました。

 

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被験者のSMA1型の幼児全員が生後20カ月時点で存命中であり、特に高用量での治療を受けた子供たちには、顕著な改善が見られたとの事です。具体的には高用量での治療を受けた子供達12人の内11人が一人で座れるようになり、9人は生後20カ月で寝返りを打つ事が出来るようになり、2名は一人で歩けるようになったという事です。

AveXis社によると、AVXS-101 は安全な事はもちろん、たった一度の治療で生涯に渡り患者の筋肉の萎縮を防ぐ事が可能との事です。また、病気の進行を防ぐだけにとどまらず、被験者には、AVXS-101による治療後、24カ月以上経った現在も、症状に改善がみられているそうです。

 

この結果を受けて、次の段階の臨床試験が計画されており、現在米国で被験者を募集しています。こちらの臨床試験は(STR1VE-NCT03306277)プラセボ群なしのフェーズ3試験で、対象は生後6カ月未満のSMA1型の乳児です。被験者応募の詳細は以下のリンクをご覧ください。

clinicaltrials.gov

また、AveXis社による臨床試験の大部分はSMA1型が対象となっていますが、生後60カ月未満のSMA2型の子供達を対象にした臨床試験STRONG(NCT03381729)も計画されており、米国で被験者募集中です。ただし、STRONGでは低用量のAVXS-101が血管経由ではなく、直接脊椎管に注入される様です。

clinicaltrials.gov

更に、生後6週未満で、SMA1、2、3型を発症すると考えられる乳児を対象にした臨床試験SPRINTも今年中旬に計画されているとの事です。

最後に臨床試験STRONGの結果を基に計画される臨床試験REACHも予定されています。REACHが対象とするのは、生後6カ月から18才までのSMA1~3型までの患者さんで、こちらは多国で実施予定との事です。

 

日々研究にまい進して下さっている研究者の皆様とそのご家族に感謝しつつ、

我が家の息子と同様に治療薬を待ち望む患者さんが一日も早く治療を受けられる日が来る事を祈りながら。

 

今日も皆さんが穏やかに過ごせますように。

 

RG7916臨床試験が日本でも被験者募集

以前ご紹介したRG7916の第2フェーズ臨床試験で被験者を募集しているとお知らせしましたが、SMA2型~3型の患者さんを対象としたSUNFISHに関しては日本でも募集開始予定との事です。

 

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治験に参加予定の医療機関は以下の通りです。

福岡市立子供病院

広島大学病院

兵庫医科大学病院

国立病院機構南九州病院

宮城県立こども病院

滋賀県立小児保健センター

静岡県立こども病院

自治医科大学病院

国立国際医療研究センター病院

国立精神・神経医療センター

clinicaltrials.gov

また、新たな経過報告によると、臨床試験が始まってすでに1年以上経過しているSMA1型の幼児を対象としたFIREFISHでは、これまでの所、参加している子供達に深刻な副作用は見られないとの事です。

 

希望する患者さん全てが治療を受けられる日が一日でも早くきますように。

寒い日が続きますが、今日も、患者さんと家族の皆さんが穏やかに過ごす事ができますように祈りながら。

 

 

 

 

 

 

キャパ越え

拙ブログを時々訪ねてくださっている方がいらっしゃる事を妄想しながら、まずは、ご挨拶。

大変ご無沙汰してしまいました。

ブログを始めた時は、半引きこもり生活の真っ最中。

何かしなければ、という焦りが募り手探りで始めたブログでしたが、そのおかげで完全ルーティン化して単調だった毎日から少し外れて、時々道草をしたり、遠回りをしたりするようになりました。

そして、せっかく書くのであれば、何かの縁で、数多あるブログの中から奇跡的にも私のブログを覗きに来て下さる誰かの気持ちを、ちょっとでも上向きにできる事を発信しなければと、勝手にプレッシャーを感じながら過ごす日々は、以前に比べて格段刺激的になりました!

そして、ブログに背中を押されるように外に出るようになると、自然と人と会う機会が増え、中には時々会って他愛もない話をして笑い合える人もできました。出会いは、いつもいい事ばかりとは限りませんが、時には新たな出会いをもたらし、それが生活の転換に結び付く事もあります。

昨年の9月、これから仲良くできたらいいな、と思っていた方が病床につきました。彼女は隣町に住んでいて、近いという事もあり、日本食や体にいいと聞いた物を手土産にちょこちょこお見舞いに行っていました。そんなある日、彼女のお宅で、先生仲間だという方に紹介されました。その方から彼女の日本語クラスを引き継がないかとの話があり、元気になるまでの間の中継ぎのつもりで軽く引き受けました。でも、10月、入院先にお見舞いに行って、「今度はカニ雑炊作って来ますね~」と約束したのが最後となり、その日、息子さんの11才の誕生日を家族でお祝いした後、昏睡状態となり、2日後、亡くなりました。

それから、私は週一で日本語を教えています。フランス語がまだまだ下手なので四苦八苦しながらですが、生徒さん達はみな一生懸命で、楽しく授業を進めています。フランスの田舎町でも日本語を勉強したいと思っている人がいて、その需要に答えようとする団体があり、それらの人の役に立てるというのは本当に嬉しい事です。

ただ予期していなかった事が一つ。半引きこもり生活が長かったせいか、週一で2時間のクラスを教えるだけでも、メンタルキャパシティが一杯一杯になり、日常生活+クラス以外は何も手に付けられない状態になってしまいました。土曜はクラスの後、帰ってきたら夕飯の準備以外は何もできず、日曜も放心状態。月、火、少し回復したところで週末できなかった掃除や洗濯をこなし、水曜、ちょっと落ち着いたかなと思ったら、木曜からは次のクラスの事で頭が一杯…。とにかく、ピアノで遊んだり、お菓子を焼いたり、絵を描いたりする事はおろか、大好きで読者になっている方のブログさえ開く余裕がなくなりました…。

教え始めて数か月、少しずつリズムに慣れてきて、先週、久々にブログの世界へ戻ってきました。好きなブロガーのみなさんのブログを読んで、コンピュータの向こうで毎日頑張ってピカピカ輝きながら生きてらっしゃるのが伝わってきて、本当に、元気づけられました~。

私も、また、少しずつブログアップしていけたらな、と思います。

私の住む地域は、毎冬、雪など降っても1回か2回程度だったというのに、なんと昨日降り始めた雪は、今日になっても降り続き、とうとう一面雪化粧!

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いつも学校へ行きたがらない娘も、真っ白な雪を見て、はしゃいで学校へ行きました。

雪道の運転は怖いですが、喜ぶ子供の笑顔はいいものです。

そして、息子も…、と言いたいところですが、彼は風邪で学校休んでます。

車椅子では、「雪で嬉しい!」とはなかなか言えません。でも、まだ、14才。不安や心配の大部分は親が解消してあげられます。でも心配なのはオトナになってからの事。

障害児か健常児かに関らず、親っていう生き物はいつも子供の将来を心配するもんですよね。

日本もあちこちで大雪。皆さんと皆さんのご家族が、今日も元気で無事に過ごせますように。

半引きこもり生活、脱出(とは、まだまだ言い切れません)

縁=何処をどう辿って、なぜ巡り合えたのか、皆目見当がつかず、偶然なのか奇跡なのか分からないけれど、大切にしなければならないもの(?)

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顔は知っていて、当たり障りのない会話はしても、友達とまでは呼べない人っていますよね。でも、そんな知り合いレベルの人のお陰で、人生に予期しなかった展開が訪れる事もあります。

 

私は、もともと積極的に新しい事に挑戦していくタイプではなく、新しい人と会う社交の場も苦手です。それに加え、基本、脳天気なので、多少の事では悩んだりせず、簡単に現状に満足(妥協?)できちゃうというのも、裏返せば向上心や冒険心に欠けている事になり、何をするにも二の足を踏んでしまいます。

 

ですが、不思議な事に、今振り返ってみると、積極的に自分から行動を起こしている訳ではないのに、徐々に半引きこもり生活から脱出する環境が整えられていきました。つい1年半前までは、子供の送り迎えと買い物、そして週2回のフランス語教室以外、家を出る事は滅多にありませんでした。それが、2016年春、ご近所さんから頼まれて、隣町の喫茶店を盛り上げるために、茶道をテーマに日本文化の紹介をしたのが転機となり、今年の夏までに計3回の講座を開き、そして何と先月からは、お給料を頂いて週一で日本語のクラスを教えるまでになりました!

 

とは言え、何をするにしても、(ちんたら勉強していたので)フランス語力が全く足りず、決まって誰かに背中を押される形でお世話になっています。なぜか、私ごときに貴重な時間を費やして応援してくれる人がいます。 そして、更に不思議な事には、お世話して下さる人たちはあくまで「お世話になっている知人」であり、「友達」と呼ぶにはまだまだ距離感がありすぎる方々です。

 

以前は、「縁」というと、家族だったり、夫婦だったり、恋人だったり、親友だったり、ともっと運命的な強いつながりを指すものだと思っていました。でも、ここへきて気づかされた事は、自分に近い存在の人達だけが「縁」を作り上げているのでは無いという事です。

 

人生、何処をどう辿り、どんな風に誰と出会うかは分かりませんが、自分が意識するしないに関らず、日々巡り合いが繰り返されています。 その巡り合いのお陰で、今、私が、フランスという国の、おそらくは世界の大多数の人が名前も聞いた事のない高齢化の進む小さな村に住みながら、やっと中級に引っかかる程度のフランス語力で、少しずつ社会参加を始めているのです!

どう考えても、自力だけで出来る事ではありません!

 

とすると、奇跡は、何気ない毎日の中に隠れている物の積み重なりなのかもしれません。

 

とにかく、これからは、恵まれた縁を大切にしながら、感謝の気持ちを忘れずに、周りの方々の縁も少しずつでも繋げていけたら嬉しいなと思います。

 

“Do not be afraid; our fate cannot be taken from us; it is a gift.” 

恐れる事はないさ。運は取り上げられたりなどしない。もともと運は贈り物なのだから。         -ダンテ・アリギエーリ

友達

また一つ、命が途絶えました。

大きな時の流れの中では、生まれる命も消える命も、ただ自然の営みの一部で大した事はないのかもしれません。

現に、彼女が逝ってしまった朝も、紅葉した木々は美しく木枝を揺らし、暖かい太陽の光は変わりなく私たちを照らしていました。人々は道を行き交い、信号は規則正しく順々に色を変え、車の中の私も昨日と同じ様に息をしていました。

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でも彼女を愛した家族は今日も涙にくれ、彼女無しでも容赦なく過ぎていく時間と、何事もなかったかのように語らいあい笑いあう街の人々を恨めしく思い、これからどうやって暮らしていこうかと途方に暮れているのだと思います。

何を言って慰めてあげたらいいのでしょう。まだまだ子供の息子さんにはどんな声を掛けてあげたらいいのでしょう。気の利いた事ぐらい言って少しでも悲しみや痛みを和らげてあげたいけれど、そんな言葉はみつかるわけもありません。

私の母は小学校2年生の時に母親を亡くして、お葬式に集まったご近所さんに「寂しいか?」と聞かれ、「寂しくないとでも思ってんのか!?」と心の中で独りごち、腹が立って思わず舌打ちをしてしまったと言っていました。それが後から父親の耳に入り酷く叱られたとか。

そのご近所さんもきっと、幼い子供に何か言ってやらなければ、という一心で発した言葉だったんだと思いますが、発した言葉は反感を買い、子供心を傷つけてしまった…。

家族の悲しみに追い打ちをかけるような事はしたくないという思いが、さらに口を重くしてしまいます。

亡くなった彼女は特に親しい友達という訳ではありませんでした。でも何度かお茶に呼ばれてお宅にお邪魔しましたし、我が家に来てもらった事もありました。一緒に助け合ってささやかな日本文化イベントも開きました。だけど、彼女との他人行儀で当たり障りのない距離感は縮まる事はなく、いわゆるArm-length、腕を伸ばして体を中心に描く円の内側にはお互いに入る事はありませんでした。

でも、お別れ会に参列した時、彼女がいかに多くの人に惜しまれる存在だったのかが分かりました。そして、同時に、「私がこの世を去る時は、こんなに涙してくれる人はいないな。」という思いが心をよぎりました。

去年、友人のご主人が亡くなった時、友人と4人の子供達は周りのサポートがあって、乗り越えられた。やっぱり、残される家族にとっては、故人が多くの人に慕われていた事を知るだけでも、その人の人生が幸多き物だった事の証となり、慰めになるのだと思いました。

私と私の家がフランスに移住してきて早3年。家族以外で心を許せる様な友人はここにはまだいません…。少しバカで脳天気な私は、現状に満足しやすく、根本的には恵まれていると思っていますし、そのせいで、半引きこもり生活を3年近く続けて、物足りなさは多少感じる事はあっても、幸せだなと感じていました。

でも、こうして、知人の死に際して、改めて考えると、やはり友達って大切だなと思います。

人は数えきれない人のお陰で生きています。でも、実際に会う機会のある人はその中でも縁のある一握りの人だけ。そして出会えた一握りの中で、知人からお互いが友人と思い合える人に巡り合えるのは一体何パーセント位なのでしょうか。

一期一会。一つ一つの出会いを大切にしていかなくては。

 

これまでは、「40過ぎると、そうそう簡単には「いい友達」ってできないよねぇ。」という思い込みがあって、そういう相手を探そうともしていなかったように思います。何よりも、「大人として恥ずかしくない振る舞い」を心がけ、周りに「ウザイ」と思われるような行動は極力慎んで…、という標準的な大人の女性を演じるのに気を遣い過ぎて、友達になるためにどうしても必要な積極的なあと一歩が進みだせずにいたように思います…。

とにかく、ピンとくる素敵な出会いがあったら、勇気を出して、素直な自分、自然な自分を見せてみる事にします。そして、いまある友達も大切にしていきます。

皆さん、最近、ご無沙汰している友達はいませんか?

今日あたり、ちょっと連絡してみませんか。

 

Ne marche pas devant moi, je ne suivrai peut-être pas.
Ne marche pas derrière moi, je ne te guiderai peut-être pas.
Marche juste à côté de moi et sois mon ami.    ~Albert Camus~

 

僕の前を歩かないで。ついては行かないかもしれないから。

僕の後ろを歩かないで。君を導かないかもしれないから。

僕のすぐ隣を歩いて、そして友達でいて。 ~アルベール・カミュ~

 

 

 

RG7916臨床試験結果 経過報告

現在、SMA2型、3型の患者さんを対象に行われている臨床試験の第2フェーズにあるRG7916の経過報告が、去る10月3日に発表されました。この薬品は米国のPTCセラピューティックス社、スイスのRoche社、そしてSMAファンデーションが協力して研究開発が進められてきた内服薬です。

www.prnewswire.com

報告によると、被験者は試験中の全ての用量において、SMN蛋白の増加がみられ、中央値に当たる患者さんで2.5倍の増加があったとの事です。

 

この臨床試験はサンフィッシュ(SUNFISH)と呼ばれ、SMA2型と3型の患者さんを対象に2段階で行われるます。第一段階では新薬の安全性、、効能、及び数種類の用量における薬剤プロファイルが調査されます。RG7916は飲み薬で、現段階での被験者は歩行可能な方やそうでない方もいらっしゃる様です。

第二段階では150名の歩行不可能な患者さんを対象に第一段階の結果を踏まえた推奨用量が処方される予定との事です。

 

今回の報告内容は、この第一段階に参加し、28日以上治療を続けた被験者の結果です。初期分析の結果、試験中の全ての用量において、安全性が疑われる結果はなく、新薬がSMN蛋白の増加を促進している事が証明されました。

 

近く開始される予定の第二段階への被験者を現在、米国、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパの国々で募集しています。Sunfishと並行して1型の乳幼児の患者さんを対象としたファイヤーフィッシュ(Firefish)への参加者も募集している様です。

www.sma-europe.eu

一日も早く全ての患者さんが治療を受けられる日が来ますように。

今日も様々な国で研究、開発、試験に携わって下さっている方々に感謝しつつ、

時間を大切に過ごしていきます。

皆さんもいい一日が過ごせますように。

 

 

 

 

目まぐるしく過ぎる時間。

行き先へとせっせと足を運び行きかう人。

容赦なく流されていってしまう事への恐れと焦り。

湧き出ては置き換わる感情。矛盾し葛藤する渦巻く思い、考え。

 

人の気持ちって、一見とても複雑なようですが、ここの所、実は心の深い所に、

自分でも知らない静かな湖面があるんじゃないだろうか、というような気がしています。

f:id:yamatopiece:20170905174206j:plainアヌシー湖、 Paul Cezanne1896

風のない穏やかな日の湖面は、周りの風景を映し出す鏡。

見る角度によっては映る物は変わりますが、そこにある物をあるがままに映し出す事ができて、時には直接見るよりもその美しい個性がより強調されて輝いて見える事さえあります。

心の底にある湖も、本来、物の本質を映し出す事ができるのだと思います。でもそれはあまりに深い所にあり過ぎて、雑木や雑草に埋もれてしまい、普段は何が写っているのか分からないだけなのだと。

でも、いつもは静かな湖面も、時として風に吹かれ波を起こしたり、何かがその表面に触れたように綺麗な波紋を広げたりします。そうすると映し出される像は揺れて見えなくなってしまいますが、波動は感じる事はできるので、返って気が付きやすくなります。

それが、感動するという事なのかもしれません。

 

先日、観光がてらに入った教会で、平日だというのに、ミサが開かれていました。

中央の祭壇を前に十数名ほどの信者の方々が集まり、神父さんと共に讃美歌を歌い、祈りをささげ、修道女の方が読み上げる聖句に耳を傾けていました。

ここの所、ヨーロッパは物騒で、観光客が集まる場所には物々しい警備が敷かれ、教会内に護衛官が配置されていました。フランスでは去年、神父さんがテロリストに殺害される事件も起こっているので、自然な事かもしれません。

この教会では正面に、「建造時より一日も欠かさず祈りが捧げられています。」との垂れ幕がかかっていました。

フランスでは、信者であるかないかに関らず、ミサに集う事は自由です。教会の扉もいつも解放されています。まさに、「来るもの拒まず」の精神。

 

この日、私も、ミサの末席に列席させてもらいました。

フランス語の聞き取りがまだまだなので、全て理解できたわけではありません。

聖書は読んだ事はありますが、隅々まで読み込んだわけでは無く、よく分かっているわけでもありません。

でも、信者の方々が神父さんと共に心を合わせて一心に祈っている姿は美しく、徐々に観光客の騒めきが聞こえなくなり、警備員の厳めしい眼差しも背景に溶けてしまいました。そして、ミサに集うみんなの思いがそよ風となって、私の心の湖面に届きました。

さざ波が生まれ、静かですが確かな動きを生み、グッと喉元へ迫り、そして目元に到達すると、涙となって流れました。

言葉はよく分からなくても、私の心は人の祈りの力を感じとったのだと思います。

 

人は辛い時や悲しい時、自分の力ではどうにもならない事に直面した時に、祈ります。

自分が弱いと感じる時にこそ、偉大な力に慈悲の心を求める気持ちが生まれるんでしょうか。

人が手を合わせて、自分の無力さに肩を落としながらも、奇跡を願って心から祈る時、やはりそこには大きな力が宿るのだと思います。

 

その力は人に感動を与えて、時には行動を起こさせる原動力になり、そして時には奇跡を起こす事になるのかもしれません。

 

偉大な力は、生きとし生ける物の根底にある力。

私の心の湖も、あなたの心の湖も、もしかしたら源泉は同じなのかもしれません。

 

皆さん、何か願い事はありますか。

祈りのパワー、信じて、祈ってみませんか。